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忘れた感動の仕方

最近、ブログのネタ切れをおこしている。

何となく感動が薄れてきたようで、

例えば、聖火が点灯され、日本中をめぐるらしいが、

それがどうしたとしか感じなくなっている。

これは、CORONAの後遺症なんだろうか。

終息のめどがたたないばかりか、

またぞろ感染拡大の兆候がみえてきている。

いつまで続くかわからないマスク生活。

有効かどうか、感染に終止符をうてるかどうかはっきりしないワクチン、

そもそも、日本中の人がワクチンが打てるかどうかもはっきりしない。

時短営業を続けざるを得ない飲食業の人たち、

人の移動が制限されて、青息吐息の観光業の人たち、

音楽や舞台、人にパフォーマンスを見せる業種の人たちも表現することに苦労している。

常に何かしら罪悪感を持ちつつ、行動している私たち自身。

CORONAにかかるのも、孤立死するのも、貧乏になるのも、

家にこもりきりで認知症になるのも、我慢しきれなくなり騒ぐのも、

体力が持たず倒産するのも、そして失業するのも、

御飯が食べられなくなることも、住まいを無くすことも、

何もかも自己責任なんだろうか・・・

それともコロナ禍だから仕方ないことなんだろうか。

あきらめが常態化し、泣いてわめくこともできない状態で、

感動は生まれない。

 

長いトンネルの先に、聖火のあかりなら共感できるが、

トンネルの中で火を燃やしたら酸欠で倒れてしまう。

おそらくそんな状況にあるのでは。